羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 19、南は九州、北は北海道に及んだ「八島の国」

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
19、南は九州、北は北海道に及んだ「八島の国」
 
 
 
 それでは次に、国生みで生まれた「八島の国」を個別に見ていくことにしよう。
 
 ①のヤマトアキツスは、常世国の大半を占める本州ということでよいだろう。ヤマトや北のヤマトなど、八方のうち月隅(筑紫)と素阿佐(阿波・素佐)を除く六つの国はこの島の中にある。「アキツス」は、『記』では「秋津島」、『紀』では「秋津洲」、『旧』では「秋津州(嶋)」と表され、いずれも「アキツシマ」と読まれているが、「ス」と読むのなら漢字は「洲」がふさわしいと思うので、アキツス=秋津洲とする。「ヤマト」は、あとで説明するが、時代によって山本=日本=大日本=大倭=大和と漢字表記が変遷するので、便宜上カタカナのままとしておく。
 
 ②のアハチシマは、『記』では「淡路之穂之狭別島」、『旧』では「淡道之穂之狭別嶋」と「淡道州」、『紀』では「淡路洲」と表されているが、まぎれもなく淡路島のことなので、アハチシマ=淡路島である。
 
 ③のイヨアワフタナは、『記』では「伊予之二名島」、『紀』では「伊予二名洲」、『旧』では「伊予二名州(嶋)」と表されている。八方の一つである素阿佐とは素佐と阿波のことで、阿波は四国、素佐は紀伊半島南部である。さらに『ホツマ』によれば、阿波は伊予という名も持つため、“二つの名を持つ”という意味で「二名」とも呼ばれたとのことだ。よって「イヨ」も「アワ」も「フタナ」も元々はどれも同じく現在の四国をさす地名なので、「イヨアワフタナ」も四国のこととしてよい。漢字で表せば、イヨ=伊予、アワ=阿波、フタナ=二名なので、イヨアワフタナ=伊予阿波二名である。
 
 ④のオキミツコは、『記』では「隠伎之三子島」、『紀』では「億岐洲」と「億岐三子洲」、『旧』では「隠岐州」と「隠岐之三子嶋」と表されている。よって、オキミツコ=隠岐三子で、島根県隠岐諸島と考えられている。
 
 ⑤のツクシは、『記』では「筑紫島」、『紀』では「筑紫洲」、と『旧』では「筑紫州(嶋)」と表されている。筑紫は九州の古名なので、九州ということで問題ない。ツクシ=筑紫である。
 
 筑紫には筑前筑後豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の九つの洲(国)があったので「九州」という呼び名が定着したが、島自体の名前は筑紫島だったと思われる。それと同様に、四国にも伊予、阿波、土佐、讃岐の四つの国があったから「四国」と呼ばれているが、島としての名称は二名島なのだろう。
 
 ⑥のキヒノコは、『記』では「吉備児島」、『紀』では「吉備子洲」、『旧』では「吉備児嶋」と表されている。『記』にある「吉備児島」とは“吉備国の児島”という意味なので、吉備国――現在の岡山県児島半島のことである。江戸時代に行われた干拓によって地続きとなるまで、この半島は島だったので、これも問題ないだろう。漢字で表せば、キヒノコ=吉備の児である。
 
 ⑦のサトは、『記』では「佐度島」、『紀』では「佐度洲」、『旧』では「佐渡州(嶋)」と表されている。よって、サト=佐渡で、新潟県佐渡島のことである。
 
 ⑧のウシマは、『記』では「大島」、『紀』では「大洲」、『旧』では「大嶋」と表されている。よってウシマ=大島で、一般的には周防大島――山口県の屋代島とされ、他に伊予一宮の大山祇神社がある大三島という説もある。
 
 しかし、大島の順番が佐渡島の次であるという事実から考えを巡らせると、周防大島大三島という説はどうもしっくりこない。大島が瀬戸内海の島ならば、地理的位置関係からいって吉備の児島の次にくるのが自然だからだ。
 
 『ホツマ』は和歌の基本である五・七のリズムで綴られているので、八島の名を連ねた順番は必ずしも伊佐奈木と伊佐奈実が実際に島を巡った順番ではないと思われる。だが、それでも可能なかぎり事実と合わせているように感じられるので、旅の効率を考えれば、おそらく④の「オキミツコ」の五文字と⑥の「キヒノコ」の四文字が五・七の連続を維持するために入れ替わっているだけで、①ヤマト秋津洲→②淡路島→③伊予阿波二名→⑥吉備の児→⑤筑紫→④隠岐三子→⑦佐渡→⑧大島の順に回ったのではないかと思う。
 
 もし「大島」が瀬戸内海の周防大島大三島なら、今より航海に時間がかかり危険を伴う時代に日本海佐渡に行ってから再び西に戻るような無駄なことをするとは到底思えないので、回る順番は①ヤマト秋津洲→②淡路島→③伊予阿波二名→⑥吉備の児→⑧大島→⑤筑紫→④隠岐三子→⑦佐渡となるはずである。その場合、やはり和歌の文字数を保つために、『ホツマ』における記述は四文字の「キヒノコ」の位置に五文字の「オキミツコ」を入れて、「ヤマトアキツス アハチシマ イヨアワフタナ オキミツコ キヒノコ “ウシマ” ツクシサト」になると思うので、問題なく五・七のリズムは保たれる。それにもかかわらず、この並びになっていないのは、実際に大島に行ったのが佐渡の後だったからだろう。
 
 隠岐から佐渡に到った二人が逆行しないとすれば、向かう先はさらに北東である。そして、そこにはたしかに大島――大きな島が存在する。
 
 つまり、この「大島」とは、北海道のことではないだろうか。
 
 先にも少し触れたが、『ホツマ』によれば、出雲の国神だったオホナムチは中央政府軍によって国を平定されたあと出雲から追放され、代わりに津軽の国を与えられている。ということは、この時代、すでに津軽平野青森平野には人が住み、西との行き来があったということだ。ならば、北に見える大島――北海道の存在は確実に知っていただろう。
 
 もし通説どおり、ウシマが屋代島や大三島であれば、八島の中で唯一「大島」――大きな島と呼ばれる島が八つの中で一番小さいということになるが、八島の中で一番小さい島が、八島という括りの中で「大島」と呼ばれることは、さすがにないように思う。屋代島や大三島が八島の中に入るのなら、「大島」という呼び名はそれらよりも大きな島に与えられ、屋代島や大三島には別の呼称が与えられるのが理に適っている。
 
 以上の理由からも、大島が屋代島や大三島とは思えないのだが、北海道ならば、「八島の国」はもっと広く捉えるべきである。
 
 ④の「オキミツコ」はオキ=隠岐隠岐諸島と考えられているが、いわゆる隠岐国知夫里島、中ノ島、西ノ島の島前三島と島後島の四島から成り、なので四つ子であって三つ子ではない。よって、オキミツコの「オキ」とは「隠岐」ではなく「沖」であり、陸から遠く離れた日本海沖に浮かぶ隠岐諸島対馬壱岐の三つをさすのではないだろうか。『ホツマ』では「イキ」や「ツシマ」について触れられていないのに、『記』および『紀』の一書(大八州生成の第七)や『旧』には壱岐対馬も生んだと書かれているのは、そのためだろう。⑥の「吉備児」も、現在半島となっている児島のほか、同じく備前国児島郡に属していた小豆島も含むと思われる。それゆえ『記』と『旧』には小豆島を生んだという記述があるのだろう。
 
 以上をふまえて、八島の名称とそれぞれに該当する島の現在の名称を照合すれば、次のとおりである。
 
  ①ヤマトアキツス〔ヤマト秋津洲〕―本州(1)
  ②アハチシマ〔淡路島〕――――――淡路島(11)
  ③イヨアワフタナ〔伊予阿波二名〕―四国(4)
  ④オキミツコ〔沖三子〕――――――隠岐諸島(17)・対馬(10)・壱岐(28)
  ⑤ツクシ〔筑紫〕―――――――――九州(3)
  ⑥キヒノコ〔吉備の児〕――――――児島半島・小豆島(26)
  ⑦サト〔佐渡〕――――――――――佐渡島(8)
  ⑧ウシマ〔大島〕―――――――――北海道(2)
 
 括弧内の数字は、日本の島を面積の大きい順に並べたときの順番で、隠岐諸島の17位は四島の中で一番大きい島後の順位である。当然のことながら、一番大きいのは本州であり、したがって本州に該当する「ヤマト秋津洲」は1である。八島に該当すると思われる島の中で一番小さいのは28位の壱岐だが、それより上位となる27の島を見ると、上記の島以外はすべて北方領土か、沖縄本島天草諸島(熊本)の上島と下島、五島列島(長崎)の福江島など九州の南や西に位置する島々だ。つまり八島は、本州から確認できる日本の代表的な島々をほぼ網羅しているのである。
 
 ちなみに、通説で大島と考えられている屋代島は壱岐よりも小さく、面積順位は30位である。その程度の大きさの島を「ウシマ」と呼ぶ感覚は、当時においてもなかったのではないかと思う。
 
 ところで、「八島」を生んだとするこの「国生み」の話だが、そもそもどういう話なのだろうか。実際に人間が島を生み出すことは不可能である。よって、このとき新たに先述の八つの島が生み出されたわけでは、けっしてない。また、六代天君の支配が及んだという淡海安曇、日高見、ヤマト、葦原、北のヤマト、細矛・千足は、みな①のヤマトアキツスの中に存在する。したがって当然のことながら、ヤマトアキツス、ツクシなどの各島は七代天君が国生みを行う以前から存在していたはずである。
 
 おそらく、この時をもって、上記の島々が天君が治める常世国の領土と定められたということではなかろうか。
 
(2018/3/7最終更新)