羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 2、最初の天神「クニトコタチ」――国家と和歌の誕生

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
2、最初の天神「クニトコタチ」――国家と和歌の誕生
 
 
 
 四代の国尊のあと、人の中から新たに他の人々を教え導く者が現れた。その名をクニトコタチという。『記』には「国之常立神」の表記で登場し、『紀』や『旧』では「国常立尊」、または「国底立尊」とも表されるが、「トコ」を漢字で表せば「底」ではなく「常」なので、クニトコタチ=国常立とするのが妥当だろう。
 
 国常立はトコヨノミチ〔常世の道〕を説いて各地を巡り、ヤモ〔八方〕をナニアガタ〔何県〕と定めた。こうして生まれた国がトコヨクニ〔常世国〕である。
 
 国常立が教え広めた「常世の道」とは、人の世が末永く続いていくための道――いわば人間という種族が生き長らえて種を残し、後世へと繋いでいく方法といってよい。その中には、機織りや農業などの衣食住に関することから、共存のためのルールや掟なども含まれた。つまり、永続的な国家を構成する国民としての基本理念の共通化と浸透がはかられたのである。そのために言語の整理も行われ、手段として用いられたのが「イナニツツル〔五・七に綴る〕」節――すなわち五・七の節を持つワカ〔和歌〕だった。
 
 また『ミカサ』によれば、柱を立てて棟木を結い合わせて萱を葺いて造ったムロヤ〔室屋〕に住むこと、木の実を食べることを教えて民に倣わせたのも国常立とのことである。それまで――御中主よりフソヨ〔二十代〕まで――は、穴に住んでいたとのことだ。「二十代」とは、国常立以前に世を継いだ御中主、ヱヒタメトホカミ、キツヲサネ、アミヤシナウの計“二十”人の国尊のことである。
 
 常世国の長である国常立は、はじめは単に「カミ」とだけ呼ばれた。漢字で表せば「カミ」は「神」だろうが、実際は現在の「神」の字義にある“人外の特別な存在”という意味ではなく、あくまでも“頭”の意味であり、人々の長という立場を表す呼称にすぎなかった。
 
 しかし、世代を経るにしたがって地方分権化が進み、各地方の長がクニカミ〔国頭=国神〕を称するようになると、区別するためかアマヒカミ〔天日頭=天日神〕、あるいは略してアマカミ〔天頭=天神〕と呼ばれるようになった。本編では便宜上最初から、国常立とその直系の世継ぎを「天神」と称することにする。
 
 国常立の跡継ぎとなった「ヨツギノカミハ クニサツチ〔世継ぎの神はクニサツチ〕」である。クニサツチ『紀』や『旧』には「国狭槌尊」や「国狭立尊」の表記で登場する。いずれも読みは「クニサツチ」であり、どちらかといえば「国狭槌」の漢字表記のほうが広く使われているようだが、国常立に対応する名称だと思うので、クニサツチ=国狭立とするのが妥当だろう。
 
 国常立には「クニトコタチノ ヤクダリコ〔国常立の八下り子〕」と呼ばれる八人の子がいた。そして彼らは「ミナソノクニオ オサメ〔皆その国を治め〕」た――とのことである。「その国」とは各人が治めた地方のことで、その昔ト、ホ、カ、ミ、ヱ、ヒ、タ、メが治めたことから、各国も「トホカミヱヒタメノクニ〔ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メの国〕」と呼ばれた。それゆえ八人は、それぞれ国の名を冠して「ナニクニサツチ〔何国狭立〕」と名乗った――トの国の国狭立ならば「トの国狭立」というように。常世国を八分割した「サツチニヲサム ヤミコカミ〔狭立に治む八御子神〕」なので、“狭き国の常立”という意味で「国狭立」と呼ばれたのだろう。
 
 この八人の国狭立は、“八”つの地“方”――ヤモ〔八方〕に分かれて常世国を統治したので、総じてヤモヌシ〔八方主〕といった。これが「クニキミノハヂメ〔国君の初め〕」である。また、“八”つの地方に“下”ったので、「ヤモヤクダリノ ミコ〔“八方八下り”の御子〕」ともいう。『旧』の神代系図には「天八下尊」という神名が見られるが、その読みは「アマノ“ヤクタリ”ノミコト」なので、これは彼らのことに他ならないだろう。つまり「天八下尊」とは、一人のことではなく、八人の総称なのである。
 
 続いて、国狭立の跡を継いだのは、トヨクンヌである。
 
 『ホツマ』には「ヤモノヨツギハ トヨクンヌ〔八方の世継ぎはトヨクンヌ〕」という記述がある。また、トホカミヱヒタメのうちカにあたる西の国――クロソノツミテを治めるアカガタノ“トヨクンヌ”という人物も登場する。トヨクンヌはトヨクンヌシともいい、『紀』や『旧』では「“豊国主”尊」と表されるように、その意味は“豊かな国の主”である。よって、トヨクンヌも「国狭立」と同様に個人名ではなく、八方の国狭立の世継ぎをすべて「トヨクンヌ」と称したと思われる。
 
 トヨクンヌは、『記』では「豊雲野神」、『紀』では「豊斟渟尊」と表され、前述したように、『紀』の一書(神代七代の第一)と『旧』の神代系図では「豊国主尊」と表されている。さらに、『紀』の一書は別名として「豊組野尊」「豊香節野尊」「浮経野豊買尊」「豊国野尊」「豊齧野尊」「葉木国野尊」「見野尊」を載せ、『旧』も別名として「豊斟渟」「豊香節野野豊尊」「浮経野豊買尊」「豊齧尊」を載せている。『紀』の一書と『旧』における同名、類名をまとめれば、次のとおりである。
 
     『紀』の一書                『旧』
  ①豊国主〈トヨクニヌシ〉尊       豊国主〈トヨクニヌシ〉尊
  ②豊組野〈トヨクミヌ〉尊        豊斟渟〈トヨケムヌ〉
  ③豊香節野〈トヨカブシノ〉尊      豊香節野〈トヨカフヌ〉野豊尊
  ④浮経野豊買〈ウキフノトヨカヒ〉尊   浮経野豊買〈ウキフヌトヨカヒ〉尊
  ⑤豊国野〈トヨクニノ〉尊
  ⑥豊囓野〈トヨクヒノ〉尊        豊齧〈トヨクヒ〉尊
  ⑦葉木国野〈ハコクニノ〉尊
  ⑧見野〈ミノ〉尊
 
 つまり、『旧』に記載されている別名はすべて『紀』の一書に記載されている別名とほぼ一致するので、トヨクンヌの漢字表記は実質的には八つということになる。そのうち①から⑥にはいずれも「豊」の字が含まれているので、“トヨ”クンヌの表記違いと考えてよいだろう。
 
 では何故、表記違いや別名も含めて八つの名が挙げられているのかといえば、それは八方主である八人の国狭立の跡継ぎ――「八方の世継ぎ」がトホカミヱヒタメの各国に存在し、計八人のトヨクンヌがいたからだろう。
 
 というのも、⑦の「“葉木国”野尊」は「“ハコクニ”ノミコト」という読みからして『ホツマ』でいうところの「“ハゴクニ”ノカミ」と同じと考られるので、したがって「ハゴクニノカミ」を漢字で表せば「葉木国の神」である。この神は、『ホツマ』によれば、トコヨカミ〔常世神〕が東に生んだ神であり、「常世神」とは“常世”国の長である国常立のことなので、国常立の八下り子の一人ということになる。
 
 そして、「葉木国」とは、のちのヒタカミであり、ヒタカミは、あとで詳しく説明するが、トホカミヱヒタメでいえばタの国のことなので、葉木国の神とはタの国狭立と考えてよい。よって、おそらくタの国狭立やその跡を継いだトヨクンヌなど、タの国を治めた国神は、タの国=葉木国に坐す神という意味で、総じて「葉木国の神」と呼ばれたのではなかろうか。
 
 以上をもって、⑦の葉木国野尊をタのトヨクンヌとすると、①から⑧をそのままトホカミヱヒタメの順にあてはめることができるので、照らし合わせれば、次のようになる。
 
  ①『紀』『旧』豊国主尊…………………………トのトヨクンヌ
  ②『紀』豊組野尊『旧』豊斟渟…………………ホのトヨクンヌ
  ③『紀』豊香節野尊『旧』豊香節野野豊尊……カのトヨクンヌ
  ④『紀』『旧』浮経野豊買尊……………………ミのトヨクンヌ
  ⑤『紀』豊国野尊…………………………………ヱのトヨクンヌ
  ⑥『紀』豊囓野尊『旧』豊囓尊…………………ヒのトヨクンヌ
  ⑦『紀』葉木国野尊………………………………タのトヨクンヌ
  ⑧『紀』見野尊……………………………………メのトヨクンヌ
 
 『ホツマ』によれば、「狭立に治む八御子神」こと八方主は「オノオノミコオ イタリウム〔各々御子を五人生む〕」とのことである。そして、八方の世継ぎであるトヨクンヌの時代に、キミ〔君〕、トミ〔臣〕、タミ〔民〕が定められ、君、臣、民のミクタリノカミはモフソノミコ〔百二十の御子〕となったという。おそらく、8(八方主の数)×5(八方主の子の数)×3(ミクタリノカミの数)=120という計算であろう。ミクタリノカミは、ミクタリ=ミクダリ=三降なので、『旧』に登場する「天“三降”尊」のことと考えてよい。よって、漢字で表せば「三降の神」である。
 
(2018/3/5最終更新)