羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 7、「カミ」とは

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
7、「カミ」とは
 
 
 
 先に、『ホツマ』における「カミ」という言葉について触れ、その意味するところは“神”ではなく“頭”であると述べたが、これについてもう少し詳しく言及しておこう。
 
 記紀には「天つ神」と「国つ神」と呼ばれる神が登場し、天地の天に在るのが「天つ神」で、地に在るのが「国つ神」ということになっている。記紀の神話をあくまでフィクションとして捉えるなら何も問題はないが、実際の歴史を基にした、ところどころ捏造もある史書とすると、これは受け入れがたい。人間が天上に存在することはありえないからだ。よって現実的に考えれば、「天つ神」といえども地上にいた人間ということになる。
 
 では、「天つ神」と「国つ神」の違いとは何か。
 
 たいへん大雑把にいえば、天君を中心とする政治に参加し、時に天君の命によって各地方に赴いてその土地を治めるのが「天つ神」であり、最初から地方にあって、その土地を治めている土着の有力者が「国つ神」である。奈良・平安時代における朝廷貴族と地方豪族、江戸時代における幕臣と藩主の関係になぞらえればわかりやすい。前者は天君の血筋とその取り巻き、後者は天君以外の八方主(国君)の血筋とその取り巻きと言い表すこともできる。つまり、『ホツマ』のみならず記紀においても、「神」とはいわゆる神様――人間と一線を画す存在というわけではないのだ。
 
 ということは、のちの漢字表記が何であれ、「カミ」とは本来“長”を意味する言葉だったと考えるのが妥当である。その名残が昔の官職名にもあり、「出雲守」と書いて「イズモノ“カミ”」、「図書頭」と書いて「ズショノ“カミ”」と読むように、長官を表す「守」や「頭」はいずれも「カミ」と読まれた。
 
 また、天つ神や国つ神の「つ」は格助詞で「の」と同じ意味である。よって「国つ神」とは「国の神」のことであり、「国の神」の読みである「クニノカミ」は同時に「国守」の読みでもある。
 
 そして、「国守」は音読みをすると「コクシュ」であり、「コクシュ」は「国主」とも表される。コクシュは、中央政府から派遣されるようになると中央政府に背かないように国を監視し守る“国守”としての意味合いが強くなったが、元来は中央政府がその国の支配者と認めた土地の長であり、まさしく“国主”だった。つまり、
 
 国つ神=国の神=クニノカミ=国守=コクシュ=国主
 
 という関係が成り立つのである。
 
 ゆえに、「イズモノカミ」というのは、出雲にいる神霊といった人外の存在のことではなく、出雲の国主のことであり、その正体はまぎれもなく人間である。後世、中央集権体制が確立し、出雲が独立国ではなく中央政府の管轄下に置かれると、「イズモノカミ」は国の長としての地位や立場を表す一般的な呼称から転じて官職名となったのだろう。他の国も同様である。
 
 というわけで、「カミ」とは本来漢字の「守」や「頭」と同じように、“長”を表す言葉だった。
 
 しかし、“長”である「カミ」が人としての生を終えると、人を超えた存在――いわば“神”となったのである。それゆえ貴人の死を「神上がる」という。「カミ」は死して初めて我々が広く認識する超人間――全知全能の「神」となるのである。火の神、風の神など自然が擬人化された例もあるが、それ以外のほとんどの神々は、神上がることによって“神”となった者たちであり、つまり元は我々と同じ人間なのである。
 
 ということで、天つ神も国つ神も人間であり、その存在が一度きりではなく複数の神話によって伝えられている者は、実在した人物であると考えてよく、彼らが登場する話の内容がいかに荒唐無稽であろうと、何らかの史実を基にしていると判断してよい。
 
 たとえば、記紀の有名な話で「天孫降臨」と呼ばれるものがある。天孫――つまり“天”照大御神の“孫”が大国主から譲られた葦原中国を治めるために高天原から“降臨”する話だ。あとでも触れるが、『ホツマ』を読むと、これは、繁栄しすぎて中央政府にとって脅威となった一地方が中央政府軍によって平定されたという、きわめてありえそうな史実が基になった話であることが判る。平定後、その地方を治めていたカミであったオホナムチ(『記』では大国主)は本拠地の出雲と、国土開発や他地方への進出によって新たに得た領地――葦原中国と総称される――を取り上げられて津軽に国替えとなり、オホナムチがいなくなった葦原中国を治めるべく、天君・天照の孫が高天原から遣わされたというわけである。これは人類史上問題なく生じえることで、この歴史的事実が天孫降臨という神話に仕立てられたと考えてよい。
 
(2018/3/5最終更新)