羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 12、ヤマトの都――寒川神社の起源

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
12、ヤマトの都――寒川神社の起源
 
 
 
 筑波山神社が六代天君の本宮だったのではないかと思うもう一つの理由が、やはりかつてのトの国――ヤマトの領域にあり、筑波山神社と同じく名神大社で、天君ゆかりの宮跡である可能性が高い古社の存在である。その古社とは、神奈川県寒川町にある相模国唯一の名神大社――相模一宮の【寒川神社】(相模国高座郡名神大社国幣中社)だ。
 
 当社の現祭神は《寒川比古命》と《寒川比女命》――社名のとおり、古くは単に寒川神と呼ばれ、相模国武蔵国を中心とした関東地方の開拓神としか知られていない正体不明の神である。しかし先述したように、四代天君となった桃雛木と桃雛実は、三晩の契りを終えたあと「サムカワ」で水を浴びて互いに袖を濡らしたことから、大きく濡れた桃雛木はウビチニ=大漬瓊、小さく濡れた桃雛実はスビチ=小漬とも称された。よって、サムカワヒコ=寒川彦とサムカワヒメ=寒川姫とは、サムカワ=寒川で禊ぎをした大漬瓊と小漬と考えてよいのではないかと思う。当社には午前三時に神輿が出御して海岸へ降りる「浜降祭」という伝統神事があるが、これこそ二人が後朝に寒川で行った禊ぎを起源としたものではないだろうか。現にこの神事は暁に海に入って海水で清められることから「“みそぎ”神事」とも呼ばれている。同じような「御浜下り」という神輿が海に渡る神事を伝え、同じく《寒川比古命寒川比女命》を祭神とする【寒川神社】(下総国千葉郡/式内小社)が千葉市にも存在するが、同じヤマトの領域内なので、こちらもこの地方を治めた四代天君ゆかりの地に建てられた神社と考えてよいだろう。
 
 また、一宮寒川、二宮川匂に次ぐ相模三宮の【比々多神社】(相模国大住郡/式内小社)では、通常天君の祖神の一人として他の天君とともに祀られることの多い《豊国主尊》を単独で筆頭祭神として祀っている。この事実からも、このあたりが四代天君時代のヤマトの国の中心地――都だったのではないかと想像されるのである。
 
 寒川神社の西には相模川が流れている。よって「寒川」とは相模川のことだろう。今でこそ寒川神社は内陸に位置するが、相模平野は海面の後退と相模川の堆積作用によって陸地化する前は海が入り組んだ湾だったので、縄文期には海に面していたと思われる。おそらく、相模川相模湾に合流する河口に造られた宮が寒川神社の起源であろう。また、二宮の川匂神社も、位置から考えれば当時は海沿いだったはずなので、こちらは中村川相模湾に注ぐ河口に造られた宮なり社なりを起源とする神社ではなかろうか。
 
 大化の改新以前、寒川神社が鎮座する相模川の東は、相模国=サガミノクニではなく、相武国=サカムノクニと呼ばれていた。よって相模川=サガミガワも「サカムカワ」と呼ばれていたのではないかと思う。『ホツマ』にも「サカム」という地名が出てくるので、寒川=サムカワが転じてサカムカワ=相武川となり、“サカム”カワが流れる国なので“サカム”ノクニと呼ばれたのだろう。そして、川西の師長(磯長)国=シナガノクニと合併後、サカムはサガミとなり、サガミノクニ=相模国が誕生したのである。
 
 その時に、相武国の一宮である寒川神社と、師長国の一宮である川匂神社とのあいだで、どちらを一宮にするかという争いが起こったと伝わっている。その故事を起源とした神事が、相模国の一宮から四宮、八幡宮、総社の六社総出で行われる国府祭(こうのまち)の中心的な儀式――「座問答」である。相武国のほうが豊かで国力があったので、実質的には相武国が師長国を吸収するような形だったため、とりあえず寒川神社が格上とされたようだが、今でも国府祭のメインイベントとして続いているこの神事では、二社の争いに三宮の比々多神社が仲裁に入り、「いずれ明年まで」と言って毎年結論を持ち越すので、実はいまだ決まっていないというのが正しいところなのかもしれない。
 
 【川匂神社】(相模国餘綾郡/式内小社)の現祭神は《大名貴命・大物忌命・級津彦命・級津姫命・衣通姫命》。《大名貴命》は伊佐奈木・伊佐奈実の孫である。《大物忌命》は、のちほど詳しく説明するが、伊佐奈実の父である。《衣通姫命》は、『記』によれば十九代允恭天皇の娘・軽大郎女、『紀』によれば同天皇の妃・弟姫である。そして《級津彦命》と《級津姫命》は、当社の由緒によれば、師長国の開拓神とのことである。
 
 級津彦と同じく「シナツヒコ」と呼ばれる神は記紀にも登場し、『記』では「志那都比古神」、『紀』の一書(四神出生の第六)では「級長津彦命」と表され、「級長戸辺命」のまたの名とされている。『旧』では「級長津彦命」の次に「級長戸辺神」が生まれたとされ、『紀』で同一神としている「級長津彦命」と「級長戸辺神」を別神とする。そして、『紀』と『旧』は伊佐奈木が朝霧を吹き払った息が神となった風の神であるといい、『記』は伊佐奈木と伊佐奈実が生んだ神で、やはり風の神としている。しかし、あとで詳しく述べるが、シナツヒコは明らかに伊佐奈木・伊佐奈木夫妻の子ではないので、実際の系譜など詳細は不明である。
 
 ということで、記紀と『旧』ではいずれも風の神とされているシナツヒコだが、『ホツマ』に登場する風の神の名は「シナトベ」なので、シナトベ=級長戸辺が風の神であり、シナツヒコ=級津彦は、川匂神社の由緒にあるとおり、シナツヒメ=級津姫とともに師長国を開拓した神ということでよいのではないかと思う。すなわち、寒川彦=サムカワヒコ=“サカム”カワヒコと寒川姫=サムカワヒメ=“サカム”カワヒメが拓いた国が“サカム”=相武の国であり、級津彦=“シナ”ツヒコと級津姫=“シナ”ツヒメが拓いた国が“シナ”ガ=師長の国ということなのだろう。
 
 したがって、師長国の開拓神であるシナツヒコと風神であるシナトベはまったく別の神なのだが、名前が似ているために混同されてきたと思われる。
 
 そもそも「シナツヒコ」の「ツ」は国つ神の「つ」と同じく格助詞で、すなわち「の」と同じ意味である。よって、“シナの男”という意味の呼称なので、個人名ではない。イセツヒコやウサツヒコも同様である。ということは、元々はシナ=科の国と関係があるのかもしれない。科の国――信濃国からこの地に入植して国を拓き、その功績が認められて、神上がったのちに当地の開拓神として祀られた神ではなかろうか。
 
 これもあとで詳しく触れるが、出雲の国神である大名貴には建御名方という子があり、彼は出雲が平定されたときに科の国の諏訪に追いやられて、この地で神上がり、諏訪の神となっている。なので、もしかしたら科の国出身のシナツヒコはその子孫であり、諏訪からやってきて師長国を拓いた彼がこの地に祖神を祀った社が川匂神社の起源なのかもしれない。それゆえ当社の筆頭祭神は《級津彦命》ではなく《大名貴命》なのだとも考えられる。
 
(2018/3/6最終更新)