羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 16、淡島神の正体――淡島神社の起源

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
16、淡島神の正体――淡島神社の起源
 
 
 
 一方、流産で無事に生まれることができず葦船で流されたヒヨルコも、神として祀られることになった。おそらくこれが、淡路島の対岸に位置する和歌山県の加太浦に存在する【加太神社(現・淡島神社)】(紀伊国名草郡/式内小社)の元々の起源である。
 
 当社の現祭神は《少彦名命大己貴命息長足姫尊》。《息長足姫尊》とは神功皇后のことだが、彼女はあとから合祀された祭神である。彼女の孫である十五代仁徳天皇が、島では祭祀を行うのが不便だといって、紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島の一つである神島に鎮座していた当社を紀伊半島西端の加太に遷座したときに、淡島神を信奉していた祖母を合わせて祀ったとのことだ。以後地名を冠して「加太神社」と称したが、現在は加太の地にある「淡島神社」と称している。「淡島」とは友ヶ島の古名で、「“淡島”に坐す“神”を祀る“社”」だから「淡島神社」なのだろう。
 
 では、「淡島に坐す(坐した)神」とは誰なのか。
 
 『ホツマ』には、ずばり「アワシマカミ」と呼ばれる神が登場する。その名をスクナビコナという。「スクナビコナ」を漢字で表せば「少彦名」なので、すなわち《少彦名命》のことである。したがって、彼が当社の主祭神であり、《大己貴命》が共に祀られているのは、少名御神のところでも述べたが、少彦名が大己貴=オホナムチと協力して国づくりを行った神だからだろう。しかし祭神については古来諸説があり、葦船で流された伊佐奈木と伊佐奈実の子とも、婦人病を患って流された住吉神の后神ともいわれている。
 
 葦船で流された伊佐奈木と伊佐奈実の子といえば、まぎれもなくヒヨルコのことである。当社には「雛流し」という神事があるのだが、雛=ヒナを流す行事が神事として伝わっているのは、流された当社の祭神がヒト(一十)ではなくヒナ(一七)――すなわちヒト=人と成る前の赤子だったからではなかろうか。
 
 当初は赤子が流された状況を再現する祭りを行うことで祭神を鎮祭していたが、その神事がやがて子供を供養する行事に変化したのではないだろうか。つまり「雛流し」とは、人形を流して供養する人形供養の行事ではなく、雛人形を雛=子供に見立てて流し、子供を供養する――とりわけヒヨルコのように流産で亡くなった子供を供養する水子供養の行事だったのではないかと思う。それゆえ広く女性たちの信仰を集めたのだろう。水子供養の対象だった神がやがて子供を守る神となり、生まれてくる子供を守る流産防止の安産を祈る神、無事に子供を生むための婦人病予防の神に転じたと思われる。
 
 また、淡島神社の祭神が住吉神の后神という伝承があるのは、ヒヨルコを祀ったのが住吉神の后神だったから――とも考えられる。あとで詳しく説明するが、「住吉神」とは金析のことである。よって「住吉神の后神」とは、昼子に乳をやって彼女を育てた金析の妻のことだ。左大臣である金析は夫婦で七代天君の「国生み」の旅に同行していたが、途中で天君が手放すことになった娘を預かると同時に、流産した子の魂を鎮めるために神として祀る祭主の役目を命じられて、一行から離れたのではないだろうか。
 
 『紀伊風土記』の加太神社の説明文には、『寛文記』からの引用で、編者も信じがたいと断ってはいるが、淡島明神天照大神の第六の姫宮で、住吉明神の后――という記述がある。確かに、その説自体は信じがたいが、あながち全くのでたらめというわけでもないように思える。天照神の姫とか住吉神の后とかいうはっきりとした具体的な人物が出てくるからには、その根拠となった事実があるはずだからだ。それに近いことが現実にあったからこそ、そのような言い伝えが残っているのである。
 
 そう考えると、淡島明神の正体は「天照神の姫」ではなく「天照神の“姉”姫」と考えるのが妥当であり、つまりそれはヒヨルコのことで、淡島明神であるがゆえにヒヨルコは記紀や『旧』では「淡島(淡洲)」と呼ばれているのだろう。そして、淡島に流されたヒヨルコを「淡島に坐す神」として祀り、祭祀を行う祭主となったのが「住吉神の后」であり、彼女が神上がると、淡島に坐す神とともに祀られたのではなかろうか――《少彦名命》を奉祭した神功皇后が死後一緒に祀られたように。
 
 その後、ヒヨルコの弟の子である大己貴とともに天下を経営していた少彦名は、大己貴との仕事を終えたあと、「アワシマノ カダガキナライ ヒナマツリ ヲシヱテイタル カタノノウラ〔淡島のカダガキ習い ヒナマツリ 教えて到る加太の浦〕」とのことなので、淡島のカダガキ(イサナギが発明した三絃琴)を習い、ヒナマツリについて教えつつ加太の浦に到ったことが判る。カダガキを習ってヒナマツリを教えたということは、弾き語りで伝導したということだろう。習ったのはカダガキの奏法なのか、カダガキの調べにのせて語られるヒナマツリのことなのかはわからないが。もしヒナマツリのことならば、それはウビチニとスビチに由来する雛祭りという行事の話ではなく、ヒヨルコを祀る祭祀の謂れについて教えられたとも考えられる――「ヒナマツリ」とは、ヒナ=一七を祀るという意味ゆえに。おそらく、ヒヨルコのような死んだ子を神として祀って供養する「ヒナマツリ」を伝えることで、子を失って悲しみに暮れる人々を慰めようとしたのではないだろうか。
 
 そんな少彦名がこの地で神上がると、彼も神の島である淡島に祀られたので、「淡島神」と呼ばれるようになった。これが今の淡島神社の起源であり、ヒナマツリを伝導した主祭神の神徳を伝えるために雛流しの神事が守られて現代まで続けられてきたのだろう。
 
 そして少彦名が淡島神となったことで、「天照神の姉姫」と「住吉神の后」という元々淡島に坐した神は、淡島神とは別の形で祀られることになったのではないだろうか。淡島神社には恵美寿神社と住吉神社という末社があるが、両社がその名残ではないかと思う。それゆえ淡島神社末社にこそ婦人病の御利益があるとされているのだろう。
 
 ちなみに、淡島神社末社は全部で十社あり、①皇霊神社、②大日霊神社、③月読神社、④恵美寿神社、⑤楠神社、⑥大山咋神社、⑦地護神社、⑧住吉神社、⑨春日神社、⑩大杉御崎神社である。社名から推測される末社の祭神は、明らかに少彦名の関係者よりも水蛭子の関係者のほうが多い。この事実も元々の祭神が水蛭子だった名残であろう。
 
 ①は“皇霊神の社”である。『紀伊風土記』では「“牟巣夫”社」となっているが、牟巣夫=ムスブ=ムスビ=皇霊なので、皇霊神社と同一である。「皇霊」は皇産霊に通じるので、当社の祭神はいずれかの皇産霊であろう。皇霊神の祖である初代皇産霊の高皇産霊か、七代天君・伊佐奈実の父親である五代皇産霊の豊受か、豊受の跡継ぎで、伊佐奈実の兄弟である六代皇産霊のヤソキネあたりが有力と思われるが、『ホツマ』によれば、淡島神社の現主祭神である少彦名はカンミムスビ=神皇産霊の子なので、神皇産霊とも呼ばれたヤソキネがふさわしいように思う。つまり皇霊神社とは神皇産霊神の社なのだろう。豊受とヤソキネの二人については重要な人物なので、改めて詳述したい。
 
 ②は『紀伊風土記』では「大神宮」となっている。大日霊神社は“大日霊神の社であり、大日霊神の「大日霊」とは「大日霊貴」に同じで、あとで詳しく述べるが、「大日霊貴」の読みは「ウヒルギ」――つまり伊佐奈木・伊佐奈実夫妻の長男で、ヒルコとヒヨルコの弟にあたり、長じて両親の跡を継いで八代天君となるアマテルのことである。伊勢の神宮と同じ祭神を祀っているので、現在は「大神宮」という社名なのだろう。
 
 ③は“月読神の社”である。『紀伊風土記』に唯一当該社が見あたらない社だが、『紀伊国名所図絵』に淡島神社の正殿の祭神は《少彦名命》、相殿左方は《月読命大己貴命》、相殿右方は《気足姫命(神功皇后)》とあるので、江戸時代には本社に配祀されていた月読が、のちに別殿が建てられて、遷座させられたのかもしれない。
 
 ⑤は“楠神の社”である。楠神は岩楠神に通じるので、岩楠神と同化した昼子を祀っていた社ではないだろうか。
 
 ④は『紀伊風土記』では「蛭児社」となっている。恵美寿=エビス=蛭子=蛭児=ヒルコなので、ストレートに考えれば“ヒルコの社”だが、⑤の祭神が昼子ならば、こちらのヒルコとはヒヨルコのことなので、当社が水蛭子を祀る社であろう。
 
 ということで、末社の本来の祭神と思われる人物を『ホツマ』に登場する人物名で表すと、次のとおりである。
 
[現社名(続風土記社名)][本来の祭神と思われる人物]
①皇霊神社(牟巣夫社)  カンミムスビ(スクナビコナの父)
②大日霊神社(大神宮)  アマテル(ヒヨルコの弟、別名ウヒルギ)
③月読神社(掲載なし)  ツキヨミ(ヒヨルコの弟)
④恵美寿神社(蛭児社)  ヒヨルコ
⑤楠神社(同)      ヒルコ(ヒヨルコの姉、岩楠神)
大山咋神社(同)    ヤマクイ
⑦地護神社(同)     不詳
住吉神社(住吉社)   名称不明(カナサキの妻、ヒヨルコの祭主?)
春日神社(春日社)   コヤネ
⑩大杉御崎神社(岬社)  不詳
 
 ところで、淡島神社には末社の社殿とは別に大国主社という境内社があり、それは三つの巨石をコの字に組み合わせた祠で、どう見ても磐座――古代祭祀の跡である。「大国主社」ということは“大国主の社”なので、現在本社の祭神とされている《大己貴命》を祀る社は実はこちらであり、『紀伊国名所図絵』がいうように、本社相殿左方の祭神は《月読神》なのかもしれない。
 
 もしくは、さらに想像をたくましくすれば、この石祠こそが水蛭子を祀る社だったとも考えられる。あとで詳しく述べるが、『ホツマ』によれば、大国主=ヲコヌシとは、『記』に「大国主神」として登場する大己貴のことではなく、大己貴の子である事代主が賜った神名であり、そして事代主は恵比寿・大黒の恵比寿様として知られる神である。よって、当初は水蛭子を祀っていた石祠が、水蛭子=ヒヨルコ=ヒルコ=蛭子=エビス=恵比寿=事代主=大国主と転じて、現在「大国主社」として伝わっているのかもしれない。
 
 以上をふまえて、淡島神社の縁起を想像すると、次のようになる。
 
 まず最初に、住吉の宮(現・住吉大社)に住む金析の妻が、淡路島から海に流された水蛭子を、淡路島が一番よく見える加太の浦に祀り、時期は不明だが、そこに石の祠が建てられた。(現・大国主社)
 
 その後、大己貴とともに国土経営を行っていた少彦名が、カダガキを習得して弾き語りをしながらヒナマツリについて広め、ヒナマツリのきっかけとなったヒヨルコが祀られている加太の浦に到り、この地で神上がると、淡島(現・友ヶ島の神島)に祀られて「淡島神」となった。時期は不明だが、そこに祠が建てられて、かつての盟友である大己貴も合わせて祀られた。
 
 その後、神功皇后三韓征伐からの帰途、嵐に遭い、神に助けを請うたところ、流れ行くままに淡島に漂着した。そして、この島に少彦名と大己貴が祀られていることを知ると、これも神々のお導きであると、その加護に感謝して、三韓征伐で得た宝物を奉り、二神の神徳に報いた。
 
 その後、神功皇后の孫にあたる仁徳天皇が、島では祭祀を行うのが不便だといって、少彦名を祀る祠を淡島から加太の浦に遷し、この祠の神を信奉していた祖母も合わせて祀った。遷座にあたって加太のこの地が選ばれたのは、ここに水蛭子を祀る石祠があり、すでに聖地とされていたからではないだろうか。
 
(2019/10/20最終更新)