羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 17、「国生み」の中心地――沼島

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
17、「国生み」の中心地――沼島
 
 
 
 さて、『ホツマ』に「コトアゲモ メハサキタテズ〔言挙げも女は先立てず〕」とあるように、女の伊佐奈実が先に言挙げをしたのがうまくいかなかった原因ということで、今度は男の伊佐奈木が先に言挙げをして、再び万物生成に励んだ。そうして生まれたのが、ヤシマノクニと呼ばれる八つの島で、①ヤマトアキツス、②アハチシマ、③イヨアワフタナ、④オキミツコ、⑤ツクシ、⑥キヒノコ、⑦サト、⑧ウシマである。記紀において「国生み」と呼ばれる話であり、すなわちこのとき二人が生んだのは、人の子ではなく国なので、生んだといっても腹から生んだわけではない。それにしても、国生みにおいて女が先に言挙げをするとうまくいかないというのは、何やら象徴的な話である。
 
 ヤシマノクニは『記』では「大八島国」、『紀』では「大八洲国」、『旧』では「大八洲」と表されている。よって、ヤシマ=八島=八洲だが、かつて九つの国があった島を「九州」と呼ぶように、「洲(州)」は“国”という意味合いが強いので、純粋に島を表す「島」の漢字を採用し、本編ではヤシマノクニ=八島の国とする。
 
 夫婦が国生みを行った宮が造られたオノコロは、記紀においては、矛で海をかき混ぜて引き上げたときに矛の先端から滴った塩が固まってできたとされる島である。『記』では「淤能碁呂島」、『紀』と『旧』では「磤馭盧島」と表され、『ホツマ』にも「オノコロ“シマ”」と書かれている箇所があるので、島だったことは確かなようだ。その名も「自凝呂島神社」という神社が現在も淡路島にあるため、オノコロ島とは淡路島とも考えられているようである。
 
 しかし、淡路島は前述の「八島の国」の一つ――②のアハチシマのことである。したがって、二神がオノコロ島に宮を築き、そののち国生みを始めてから誕生したとされる島だ。よって、淡路島ができたときには、すでにオノコロ島は別に存在していたことになる。ならば、オノコロ島と淡路島は別と考えるべきだろう。
 
 では、オノコロ島とはどこか。
 
 『記』に掲載されている仁徳天皇が淡道(淡路)島で詠んだ歌には、「淡島 淤能碁呂島 檳榔の島も見ゆ」とあるので、淤能碁呂島=オノコロ島は淡路島から見えるところにあったことが判る。ちなみに、「淡島」は神島を含む友ヶ島の古名、「檳榔の島」は“檳榔が生える島”という意味である。
 
 『記』で「あぢまさ」と読まれる檳榔は、音読みをすれば「ビンロウ」だが、ここでいう「檳榔」は東南アジア原産のビンロウではなく、ビロウのことである。王朝時代、上皇親王・大臣など身分が高い者しか乗用が許されなかった「檳榔毛の車」と書いて「“びろう”げのくるま」と読む高級牛車が存在したが、その「檳榔」と同じで、「“檳榔”毛の車」とは“ビロウ”の葉を細く裂いて屋形を張った牛車のことだ。
 
 ビロウはヤシ科の植物で、国内における北限は玄界灘沖ノ島といわれている。沖ノ島の北緯は三十四度十四分、淡路島から見える北緯三十四度十四分以南の島というと、沼島と伊島ぐらいしかない。ならば「檳榔の島」はこの2島が有力であるが、仁徳天皇が淡路島から眺めたときに、淤能碁呂島、檳榔の島の順に見えたということも併せて考えると、伊島より淡路島に近く、かつ「オノコロ」という名の神社がある沼島が「淤能碁呂島」で、伊島が「檳榔の島」とするのが妥当だろう。
 
 「オノコロ」の名を持つ沼島の【“自凝”神社】の現祭神は《伊弉諾神伊弉冉神・天照皇大神》。よって、「オノコロのヤヒロの殿」を起源とする神社と考えてよいだろう。また、沼島には『記』で伊佐奈木と伊佐奈実が巡ったとされる「天の御柱」と伝わる、高さ三〇メートルにも及ぶ「上立神岩」という巨岩も存在する。「立神岩」なのだから、その意味はずばり“神が立てた岩”だ。伝承を信じて、この岩を「オノコロのヤヒロの殿に立つ柱」と想定すると、「オノコロのヤヒロの殿」とは、自凝神社周辺のみならず、この島全体をさすと思われる。それゆえ「“ヤヒロ”の殿」なのだろう。「ヤヒロ」とは“広大である”という意味である。「ヤヒロの殿」は『記』では「八尋殿」と表されているので、ヤヒロ=八尋である。巨岩については、「“上”立神岩」というのだから、もちろん「“下”立神岩」も存在するのだが、こちらは度重なる自然災害の煽りを受けて、石柱が折れて土台だけが残る無残な姿となってしまっている。
 
 さらに、沼島がオノコロ島と考えられる理由を挙げれば、沼島の「沼」は、『記』で淤能碁呂島=オノコロ島が生まれたときに二神が天浮橋から下ろしたとされている「天の沼矛」の「沼」と同じだからである。それゆえ「沼島」と書いて「ヌマシマ」ではなく「ヌシマ」と読むのだろう。
 
 「天の沼矛」といえば、オノコロ島に関する『ホツマ』の記述は「ウキハシの上に探り得る矛の雫のオノコロに宮の殿造り、オオヤマト万物生み」なので、「ホコ」についてはただ「矛の雫のオノコロ」とあるだけで、海をかき混ぜたとか塩が固まったとかいう表現は一切ないのだが、これが膨らまされて記紀や『旧』にある、天の沼矛(『紀』と『旧』では「瓊矛」)で海をかき混ぜて引き上げたときに矛の先端から滴った塩が固まって島ができた――などというオノコロ島誕生の話が創作されたようである。しかし『ホツマ』の言葉の意味は「矛の滴の(ような)オノコロ」であり、単にオノコロ島の形を表しただけだろう。そう思って地図を見ると、淡路島は矛というか、斧を逆さにしたようにも見え、沼島はそこから垂れた滴に見える。
 
 ということで、オノコロの漢字表記は、記紀や『旧』によれば、オノコロ=淤能碁呂=磤馭盧だが、「オノコロ島」とは『ホツマ』に「シタタリガ コリナルシマオ オノコロト〔滴りが凝り成る島をオノコロと〕」とあるように、“自ずと凝り固まり成った島”という意味だと思うので、“自凝”神社の社名に倣って、本編ではオノコロ=自凝とする。巨大な石柱を含めて、自然が造った小島を天然の宮に見立てたのだろう
 
(2018/3/6最終更新)