羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 15、蛭子神の正体――石屋神社・岩楠神社の起源

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
15、蛭子神の正体――石屋神社・岩楠神社の起源
 
 
 
 筑波の伊佐宮では、七代天君夫妻の第一子となる女児――ヒルコが誕生した。「ヒルコ」は『ミカサ』に「ウムトキニ ヒルナレハナモ ヒルコヒメ〔生む時に昼なれば名もヒルコ姫〕」とあるので、漢字で表せば「昼子」である。
 
 しかし、その年はちょうど父伊佐奈木の厄年にあたり、女の子の場合、父親の厄の影響を大きく受けるので、厄落しのために一度捨て子とされることになった。現代では聞かなくなったが、厄年に生まれた子は捨て子にすると丈夫に育つといわれ、いったん捨て子とされたり養子に出されるという風習があった。有名どころでいえば、誕生と同時に捨てられて神主に拾われ家老に預けられたという八代江戸将軍徳川吉宗や、形式的に近所の教会前に捨てられた芥川龍之介の例などが挙げられる。つまり、近現代までは確実に残っていた風習なのである。この起源が昼子だとすれば、彼女に始まった儀式が二千年以上にわたって受け継がれてきたということであり、実に感慨深い。
 
 そんなわけで、イワクスフネに乗せて捨てられた昼子は、左大臣のカナサキに拾われて、彼のニシトノ〔西殿〕で育てられることになった。歌に秀でた養父の教えを受けて、のちに和歌の道に通じたので、ワカヒメ=和歌姫とも呼ばれた。カナサキは『記』に「宇都志日金析命」の名で登場するので、「カナサキ」を漢字で表せば「金析」である。
 
 昼子が乗せられたイワクスフネは、『紀』では「天磐杼樟船」、または「鳥磐杼樟船」と表されているが、『記』や『旧』では「鳥之石楠船神」という神として登場する。イワ=磐=石、クス=樟=楠だが、本編ではイワクスフネ=磐楠船とする。
 
 その後、伊佐奈木と伊佐奈実は「ウキハシノヱニ サクリウル ホコノシツクノ オノコロニ ミヤノトツクリ オオヤマト ヨロモノウミ〔ウキハシの上に探り得る矛の雫のオノコロに宮の殿造り、オオヤマトヨロモノ生み」――とのことである。ヨロモノの「ヨロ」は「万」、「モノ」は「物」で、ヨロモノ=万物なので、オオヤマトの万物を生んだということだ。
 
 万物生成にあたって、まず二人は「オノコロノ ヤヒロノトノニ タツハシラ メグリウマント コトアゲ〔オノコロのヤヒロの殿に立つ柱巡り、生まんと言挙〕」をした。オノコロのヤヒロの殿に立つ柱を巡って「生むぞー」と宣言したということである。そして伊佐奈実は孕んだが、「ツキミテズ ヱナヤブレウム〔月満てず、胞衣破れ生む〕」ことになり、「ヒヨルコノ アワトナガルル〔ヒヨルコの泡と流るる〕」という結果になった。おそらく、月足らずで破水して流産したのだろう。そのため、泡と流れたヒヨルコは「コノカズナラズ アシフネニナガス〔子の数ならず、アシフネに流す〕」――つまり、子の数には入れず、アシフネ〈『記』『紀』『旧』では「葦船」〉で流した、とのことである。
 
 『ホツマ』には、「コノフタハシラ ウムトノハ アマノハラミト ツクハヤマ アハチツキスミ クマノナリケリ〔この二柱生む殿は、天の孕みと筑波山、淡路、月隅、熊野なりけり〕」という記述があり、これは「この二柱」こと伊佐奈木と伊佐奈実が子供を生んだ殿は、アマノハラミ=天の孕み、ツクハヤマ=筑波山、アハチ=淡路(島)、ツキスミ=月隅、クマノ=熊野に存在する――ということである。二人の子供についてはのちほど詳しく述べるが、天の孕みは長男のアマテル、筑波山は長女のヒルコ、月隅は次男のツキヨミ、熊野は三男のソサノオが生まれた場所なので、必然的に淡路島で生まれたのがヒヨルコということになり、つまり伊佐奈実が流産した場所は淡路島ということだ。
 
 伊佐奈実たちの淡路島での滞在先は、明石海峡大橋ができるまで本州から淡路島に入る北の玄関口だった岩屋港の近くに《国常立尊伊弉諾尊伊弉冉尊》を祭神とする【石屋神社】(淡路国津名郡/式内小社)があるので、このあたりではないかと思う。
 
 石屋神社の元々の鎮座地は現在地より三〇〇メ-トルほど北にある三対山で、この山の北麓には岩窟があり、岩窟内には祠が建てられていて【岩楠神社】と呼ばれている。
 
 当社の現祭神は《伊弉諾尊伊弉冉尊蛭子命》。《伊弉諾尊》が祀られているからか、この岩窟が伊佐奈木の幽宮という伝承もあるらしいが、伊佐奈木の幽宮の跡は淡路一宮の伊弉諾神宮だと思うので、当社の主祭神は《伊弉諾尊》ではなく《蛭子命》であろう。そして、主祭神が《蛭子命》ならば、社名となっている岩楠神とは《蛭子命》ということになる。
 
 ところで、蛭子命といえば、その正体は、『記』や『旧』では「水蛭子」、『紀』では「蛭児」と表され、「ヒルコ」ないしは「ヒルゴ」と呼ばれているヒヨルコのこと――というのが広く認識されている説だろう。
 
 しかしながら、岩楠神社の祭神である《蛭子命》の「蛭子」は、蛭子=ヒルコ=昼子で、長女の昼子姫のことと思われる。何故なら、前述したように、捨て子とされた昼子こそ磐楠船に乗せて捨てられた子供だからだ。それゆえ岩楠神=“イワクス”カミというならば、“イワクス”フネ=磐楠船と直接関係が見いだせる昼子のほうがふさわしい。記紀は昼子の存在を抹消し、ヒルコ=昼子とヒヨルコ=水蛭子を一緒くたにしているので、祭神としての二人も混同されていることが多いのである。
 
 ヒヨルコについて『ホツマ』以外の史書の記述がどうなっているかというと、記紀や『旧』にはヒルコを葦船で流し、次に生まれたアハシマも子の数に入れなかった――と書かれている。『記』では「水蛭子」と表されているヒルコが『紀』では「蛭児」になり、『旧』には「水蛭子」と「蛭児」の両方の表記が登場するなど漢字表記の違いはあるものの、基本的には同じ内容といってよい。つまり三書においても、この時点で伊佐奈木と伊佐奈実の子は「水蛭子(蛭児)」と「淡島(淡洲)」の二人が存在したとされているのだ。
 
 けれども、葦船で流されたのも、子の数に入れられなかったのも、『ホツマ』によればヒヨルコである。よって、記紀で二番目に生まれたとされている「淡島」こそが実はヒヨルコのことであり、最初に生まれた「水蛭子(蛭児)」とは、ヒルコはヒルコでも昼子のことなのである。『紀』には、蛭児を生んだが三年立っても足が立たなかったので「天磐杼樟船」に乗せて放棄した――という記述があるが、天磐杼樟船=アマノ“イワクスフネ”とは、どう考えても“磐楠”船のことなので、『記』でいう「水蛭子」および『紀』でいう「蛭児」とは昼子のこととしてよい。実は『旧』をよく読むと、「水蛭子」は「葦船」に入れて流し、「蛭児」は「鳥磐杼樟船」に載せて流した――と書かれている。一般的には同じ内容を語った重複記事と捉えられているようだが、同じ書物の中で表記をそろえず違うままにしているのは確実に意図的な行為であろう。何らかの理由があって、あえてそうしたのである。
 
 上記の相互関係をまとめれば、次のようになる。
 
  『ホツマツタヱ』    ヒルコ(昼子)      ヒヨルコ(水蛭子)
  『古事記』       水蛭子          淡島
  『日本書紀』      蛭児           淡洲
  『先代旧事本紀』    水蛭子          淡洲
   祭神名        蛭子命
   社の神名       岩楠神
   流された船      イワクスフネ=磐楠船   アシフネ=葦船
 
 岩楠神こと昼子は、『ホツマ』に「ミトセイツクニ タラザレド イワクスフネニ ノセスツル〔三年慈に足らざれど、磐楠船に乗せ捨つる〕」とあるので、生まれて三年になるかならないかというときに捨てられたことが判る。捨てられた理由は、前述したように、『紀』では足が立たなかったからということになっているが、『ホツマ』によれば父の厄年に生まれたので厄落しのために捨て子とされたからだ。その後、金析に拾われて西殿で育てられたのだが、『ミカサ』に「ヒラウヒロタノ ミヤツクリ ソタテ〔拾うヒロタノミヤ造り育て〕」とあるので、西殿はヒロタノミヤとも呼ばれたことが判る。
 
 「ヒロタノミヤ」は、漢字で表せば「広田の宮」――つまり兵庫県西宮市にある【広田神社】(摂津国武庫郡名神大社官幣大社)がその跡だ。『ホツマ』にはまた「ヒロタトソダツ カナサキ〔拾たと育つ金析〕」とあり、その意味は“「拾った」と言って育てた金析”だが、わざわざこのような記述があるのは、このヒロタ=拾たが「広田」の語源だからだろう。ならば、現在当社がある「西宮」の地名も金析の「西殿」に由来すると考えてよい。
 
 そして、三年という年月があれば、筑波山の伊佐宮で昼子が生まれたあと、伊佐奈木と伊佐奈実が娘を連れて淡路島へ移ることも時間的に可能だろう。
 
 以上の理由から、昼子は三対山の岩窟に捨てられたのではないかと思う。つまり「磐楠船」とは、この岩窟そのものをさすのではなかろうか。筑波で生まれ、その数年後に捨て子とされた昼子が筑波から遠く離れた広田の宮で育てられたのは、捨てられた場所が筑波山の伊佐宮周辺ではなく、淡路島だったからだろう。
 
 想像するに、伊佐奈木は筑波から淡路島まで娘の昼子を一緒に連れてきたが、妻の伊佐奈実が流産するという不幸があったため、自身の厄落しの必要性を感じ、ここに到って自分の厄の影響を受けて生まれた娘を捨て子とした――それゆえ捨てられたのが生まれてすぐではなく、三年ほど経ってからだったのではないだろうか。
 
 捨てたといっても、昼子の場合、厄落しのための形式的な捨て子だったので、伊佐奈木と伊佐奈実が淡路島の三対山の岩窟に置いてきた娘を、すぐに金析が拾いに行ったのだろう。そして対岸に渡って宮を造り、妻とともに育てたと思われる。『ホツマ』に「カナサキノ ツマノチオヱテ〔金析の妻の乳を得て〕」とあるからだ。
 
 広田神社の最初の鎮座地は、六甲山地の東に位置する甲山である。現在は内陸に位置するが、今より海が陸に進んでいた縄文期にはもっと海岸に近く、海に近くはあったが山でそれなりの高さがあるため、水害の恐れがなかった。しかも甲山はきれいな三角形の形をしていて遠くからでもわかりやすく、今でも西宮市南部の至る所から確認することができるので、ランドマーク的な存在となっている。方角によっては台形に見え、台形の甲山を借景とした関西学院大学の時計台は有名である。よって、淡路島からそう遠くない大阪湾岸の中でも宮造りに適した場所だったのではないだろうか。当社については、重要な神社なので、のちほど改めて詳しく述べたい。
 
 こうして考えてくると、岩楠神社とは元々は岩窟自体を祀った神社だったと思われる。昼子=ヒルコが捨てられた岩窟そのものが御神体であり、水蛭子=ヒヨルコを流した葦船のごとく船に見立てられて「磐楠船」と名付けられたこの岩窟が「岩楠神」として祀られて、祠が建てられたのではなかろうか。神となったために、磐楠船には「鳥之石楠船“神”」という神名が与えられたのだろう。その岩楠神の祠が磐楠神の社――すなわち磐楠神社となったが、年月を経て起源が曖昧になると、岩窟という物体ではなく神徳の高い人物が祭神として求められ、おそらく岩楠神の関係者として当社の由緒にも登場する昼子が、昼子=ヒルコ=蛭子と転じて《蛭子命》という神名の祭神として迎えられたと想像される。それと同時に、昼子の両親として、やはり由緒に関係者として現れる伊佐奈木と伊佐奈実も、当所にゆかりのある神として一緒に祀られた――それゆえ現在の岩楠神社は、岩楠神の社でありながら《蛭子命》だけでなく《伊弉諾尊》と《伊弉冉尊》も祭神としているのだろう。
 
 しかしながら、岩楠神社に祀られるよりも以前に、《蛭子命》《伊弉諾尊》《伊弉冉尊》は、岩楠神の関係者としてすでにこの地に祀られていたのである。おそらくこれが《国常立尊伊弉諾尊伊弉冉尊》を祭神とする石屋神社の起源であろう。《伊弉諾尊》《伊弉冉尊》は天君の祖である《国常立尊》とともに「石屋神」の祭神名で三対山の頂上に祀られ、《蛭子命》は岩楠神の祠の前に祀られた――そして現在そこに存在するのが【恵比須神社】である。昼子=ヒルコ=蛭子、そして蛭子=エビス=恵比須と転じた結果、恵比須神の社――すなわち恵比須神社となったのだろう。
 
(2018/3/6最終更新)