羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 13、「越国のひなるの岳の神宮」の跡――日野神社の起源

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第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
13、「越国のひなるの岳の神宮」の跡――日野神社の起源
 
 
 
 相模国寒川神社主祭神寒川比古命寒川比女命》と思われる大漬瓊と小漬だが、先に述べたように、彼らは「越国のひなるの岳の神宮」に木の実を持って生まれたと『ホツマ』には書かれている。
 
 では、生まれは越国なのかというと、それもどうやら疑わしい。何故なら、高皇産霊の説明のところでも触れたが、大漬瓊については同じ『ホツマ』で天鏡神の子とされ、天鏡神は日高見(東北)を治めた高皇産霊の子であり、筑紫(九州)を治めたとされているからだ。
 
 ということは、大漬瓊の誕生地は北のヤマト(北中部)ではなく、父の天鏡神が生まれた日高見か、のちに治めた筑紫である可能性が高い。そもそも大漬瓊と小漬が木の実を持って生まれたという話自体、現実性に乏しく、どう考えてもフィクションである。なので、二人が「越国のひなるの岳の神宮」に木の実を持って生まれたというのは、あくまでも何らかの比喩であり、歴史的事実を基にした神話的創作と考えるべきだろう。
 
 とはいえ、木の実を持って生まれたというのはフィクションだとしても、大漬瓊と小漬が「越国のひなるの岳の神宮」に関係があることは認めてよいのではないかと思う。まったく無関係ならば、こんな具体的な地名が記されることはないはずだからだ。
 
 『ホツマ』には、他に大漬瓊に関して「ムカシウビチニ ヒナガタケ モモニトツギテ〔昔大漬瓊、ヒナガタケモモに嫁ぎて〕」という記述がある。大漬瓊が嫁いだのだから、その相手である「ヒナガタケモモ」とは、いうまでもなく“桃”雛実――すなわち小漬のことだ。そして、ヒナガタケモモの「ヒナガタケ」とは、福井県越前市にある越前富士こと日野山の古名である。松尾芭蕉の『奥の細道』には「比那が嵩」、『鯖江志』などには「雛ヶ岳」と書かれている。つまり、大漬瓊はヒナガタケモモ=雛ヶ岳桃こと雛ヶ岳の桃雛実に嫁いだということだ。
 
 よっておそらく、天鏡神の子である大漬瓊は日高見か筑紫の生まれであり、小漬が北のヤマトの生まれだったのではないだろうか。それゆえ「越国のひなるの岳の神宮」に生まれたという記述が『ホツマ』に残されることになったのだろう。
 
 実のところ、『ホツマ』のこの文には主語がない。大漬瓊と小漬の説明部分にあり、前後の文脈から二人のことのように読めるが、小漬一人が主語であると解釈しても間違いとは言えないように書かれている。あるいは、「コシクニノ ヒナルノタケノ カンミヤニ キノミオモチテ “アレ”マセバ〔越国のひなるの岳の神宮に木の実を持ちて生れませば〕」の「アレ」は、アレ=生れで、“生まれる”という意味の他に“生じる”――つまり“現れる”という意味もあるので、大漬瓊が木の実を持って「越国のひなるの岳の神宮」に現れたという事実を伝えているのかもしれない。
 
 以上をふまえて矛盾がないように考えれば、筑紫を治める天鏡神の子である大漬瓊は、ヱとトのトヨクンヌこと淡海安曇とヤマトを治める豊国主の跡継ぎとなり、ホとメのトヨクンヌこと北のヤマトと細矛・千足を治める豊斟渟の血筋である小漬に嫁いで、ともに四代天君の位に即き、ヤマトの相模川近辺の宮(現・寒川神社)に移って国を治めた――ということになる。これは、北のヤマトと細矛・千足の国君である阿波奈木の子の高仁が、継嗣のない六代天君の跡継ぎとなり、日高見の国君の娘である伊佐子を娶って、天君の直轄地であるヤマトにある伊佐宮(現・筑波山神社)で結婚し、世を継いで七代天君「伊佐奈木」となった経緯とほとんど同じである。素阿佐を治めていた天万神の子で北のヤマトと細矛・千足を治めた阿波奈木も、同じような立場だったのではないだろうか。
 
 先に、独り神だった天神が四代目に至って男女の二人となったのは、「豊斟渟」(ホとメのトヨクンヌ)の血筋と「豊国主」(トとヱのトヨクンヌ)の血筋が姻戚関係を結んで天神の後を継いだからだと書いたが、それはこの結論ゆえである。関係図を記せば書けば、次のとおりである。
 
【日高見】
 タ国狭立――――高皇産霊―――☆―――☆――――☆――豊受―――ヤソキネ
葉木国の神) (葉木国野) |                | 
               ―天鏡神―大漬瓊         ―伊佐奈実
【淡海安曇/ヤマト】       ⇓   ⇓             ∥ 
 ヱ・ト国狭立――豊国主……………⇓……大漬瓊――角杙―面足………伊佐奈木
【北のヤマト/細矛・千足】    ⇓   ∥            ⇑
 ホ・メ国狭立――豊斟渟―――――⇓――小漬…………阿波奈木―――高仁
【素阿佐】            ⇓         ⇑    |
 ミ国狭立――――浮経野豊買………⇓……天万神―――阿波奈木  ―クラキネ
【月隅(筑紫)】         ⇓   ⇑   |
 ヒ国狭立――――豊囓―シガ……天鏡神―天万神  ―サクナギ――イヨツヒコ
(シマツヒコ)(オキツヒコ)     |
【葦原】               ――☆――――☆―――――カナサキ
 カ国狭立――――豊香節野
 
 さて、小漬が生まれ、大漬瓊が嫁いだ「越国のひなるの岳の神宮」だが、昔「雛ヶ岳」と呼ばれた日野山には【日野神社】が存在するので、当社がその宮跡と考えるのが妥当だろう。日野山がある越前国はかつての越国を三分割した国なので、“越”前国の“雛”ヶ岳が“越”国の“ひな”るの岳であっても何らおかしくはない。
 
 当社の現祭神は《継体天皇安閑天皇宣化天皇》――二十六代、二十七代、二十八代天皇であり、安閑と宣化は同母の兄弟で、いずれも継体の皇子である。つまり“兄”弟と父“子”が祀られているので、『延喜式神名帳越前国の欄に日野神社の名はないが、丹生郡十四座の筆頭に挙げられている“兄子”神社に該当するのではないかともいわれている――いわゆる式内論社だ。同じく式内の兄子神社の論社であり、その名も兄子神社という神社が別にあるので、決定的な論拠でも新たに発見されないかぎり日野神社が式内兄子神社である可能性は低いと思うが、日野山に三天皇が祀られる神社が建てられたのはけっして偶然ではなく、社が建てられる前からここが歴史的に重要な場所だったからであるのは間違いない。よって、大漬瓊・小漬ゆかりの宮跡だった可能性は十分にある。
 
(2018/3/6最終更新)