羽生雅の『ホツマツタヱ』考~~神社と神代史の謎解き

『ホツマツタヱ』から明らかにする記紀と神社、歴史の真実

第一章 9、玉飾り付きの矛ではなかった「天瓊矛」

スマートフォンでは横画面で読むことをお勧めします。文中に挿図がある場合は、スマホの横画面に合わせてありますので(極力)、PC画面ではずれて表示されます。
 
第一章 琵琶湖畔と富士山麓にあった最初の都
 
 
 
9、玉飾り付きの矛ではなかった「天瓊矛」
 
 
 
 六代天君の跡継ぎに決まった北のヤマトのタカヒトと、日高見のイサコの縁談は、ハヤタマノオの橋渡しではうまくいかなかったが、コトサカノオの仲人によってまとまり、二人はツクバ〔筑波〕のイサミヤで結婚した。そして、トとホコを授かり、七代天君に就任した。
 
 二人が授かったトとホコは、『記』で「天沼矛」、『紀』や『旧』では「天瓊矛」や「天瓊戈」と記される物である。したがって漢字で表せば、「ト」は「瓊」、「ホコ」は「矛」で、記紀では“瓊”付きの“矛”――つまり瓊(玉)で飾られた矛とされ、これで海をかき混ぜて引き上げたら、矛先より滴り落ちる塩が積もり重なって固まり、島になった――とのことだ。『ホツマ』にも「フタカミノ ウキハシニタチ コノシタニ クニナカラント トホコモテ サグルミホコノ シタタリガ コリナルシマ〔二神の浮橋に立ち、この下に国なからんと瓊矛もて探る御矛の滴りが凝り成る島〕」という記述があるので、記紀はこれを基にして書かれたものだろう。だが、もちろん実際にはそんな魔法の杖のような非現実的な物があるはずもない。
 
 ならば何なのかというと、『ホツマ』によれば、トは「トノヲシヱ〔トの教え〕」、または「トノヲシテ〔トの璽〕」とも呼ばれている。璽とは天子や支配者の印のことだが、元々は璽=ヲシテ=押し手なので、天子の“手”形(印)が“押”されたもの――すなわち璽書を意味することもある。よって、「トの璽」とは、「トの教え」が記された、天子の手形ないしは印が押された文書と考えてよい。
 
 では、「トの教え」の「ト」が何かといえば、それは“ト”の尊か、あるいは彼が治めた“ト”下国のことではないだろうか。
 
 御中主の次に世を継いだのはト、ホ、カ、ミ、ヱ、ヒ、タ、メの兄弟の長男といわれているヱの尊だったが、のちにトの尊が兄の後を受けて国尊となった。それは、八人の中でも優秀だったか、力に勝っていたからだろう。いずれにしろ為政者として有能だったからに違いない。そうでなければ、他の兄弟――特にヒ、タ、メの三人の兄を差し置いて国尊となることはなかったと思われるからだ。
 
 さらに、『ミカサ』には「トノミコト モハカリヲサム〔トの尊、モばかり治む〕」という記述があり、「モ」とは「モモ」――すなわち漢字で表せば「百」で、これは数が多いことを意味するので、優れた為政者だったと考えられるトの尊の治世は長期安定政権だったと想像される。よって、トの尊が世を継いだト下国の時代に定められたことなどが、国常立の時代に国を治めるための「ノリ〔法〕」として整理されて「常世の道」となり、それが瓊――「トの教え」として後代に受け継がれたということではないだろうか。
 
 もう一つのホコは、漢字表記の字が表すとおり、まさしく矛のことで、教えても逆らう者を従順な者に悪影響を及ぼさないように討ち滅ぼすための武器である。ト=瓊は代々天神に伝えられてきた物だが、ホコ=矛は六代天君の時代から使われはじめた物だった。それまではまだ人々が素直で法に従順だったので必要なかったのだが、この時代に国が乱れたため、罪人を罰するべく新たに作られたのである。
 
(2018/3/5最終更新)